定期的に知人K氏と催している読書会の記録を綴ろうと思う。
今回の課題図書はこちら。
ドストエフスキーの「悪霊1」。
読書会と言っても、あらかじめ決めた範囲をよんできてその中でお互いに気になった個所を共有するという非常にラフなもの。
・この光文社新訳文庫版は解説が充実しており、訳者の亀山郁夫による巻末の「読書ガイド」が役に立った。というか、これをあらかじめ呼んでおかないと、19世紀前半の近代化しつつあるロシアの状況という話の背景が理解できない。
・上のサイト内でも、
それは『悪霊』はミハイル・バフチンが指摘した「ポリフォニー小説」の形態をとっており、登場人物の一人一人がそれぞれある世界観を抱き、イデオローグとして存在しているためです。
と、あるように筋を読ませるというよりは、作中で繰り広げられる登場人物を介した、社会批評や文明批評を楽しむのがメイン。
・文学からアフォリズムのみを切り取って引用するような態度は、現代日本で散見されるが、ドストエフスキーのこの小説を読んで、それは非常に正しい文学の楽しみ方だと考え方だと思うようになった。アフォリズムを味わうために舞台設定や登場人物があるのが文学。だから、そこを楽しめないとこの小説を味わうのは厳しい。
・ドストエフスキー作品は他のもののいくつか読んでるが、この「悪霊」は異質。語り手「G」という、内部の人を通して描かれるのが主な違いで、他作品はもっぱらより遠い第三者視点で描かれる。
・ガルシア=マルケスがドストエフスキーから影響を受けているというのがよく分かる。群像劇でエピソードを連ねる話運びが「百年の孤独」のよう。
・「G」のヴェルホヴェンスキーや周囲の人々への距離感がよく分からない。シニカルにとらえてるのか親密に思っているのか。
・p82
それに、なんだってあの連中、今さらロシアに世論が『誕生した』などと言って騒ぎ立てているんですかね。~世論を手に入れるには、何よりもまず労働が、自分自身の労働が、自分の手で事業を始めることが、自分で実践を積むことが必要だったことが、分からないんでしょうか?
当時のロシアを風刺している。洞察がみえる。西洋への劣等感が見える。
西欧主義とスラブ主義の狭間で、それらの間を縫うようにして書かれたのが「悪霊」。
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ドストエフスキーは当時の二大潮流のなかで独自の思想を練り上げたと言える。しかし、自分だけの思想というものができたとして、それは思想としての役割を果たすのだろうか? 党派性のない独自の思想というのは政治的には役に立たない。
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その独自の思想を喧伝する目的で書かれたのが文学であり、ドストエフスキーの著作であり、「悪霊」である。
・神を失った近代人にとっての聖書的存在。神のいる世界から神のいない世界に至るまでのミッシングリンク。
・p68「観念的タイプのロシア人だった」
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意外なステレオタイプ
・p85
昔はほんものの人物がいたんですよ! この人たちは自分たちの民衆を愛することができたし、民衆のために苦しむこともできたし、民衆のためにすべてを犠牲にすることもできた、と同時に、必要と在れば、彼らと一線を画することもできたし、~
ドストエフスキー文学の特徴である優れた社会批評に思える。グッときた。
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老人の繰り言にも思える。「ほんものの人物」とは?
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ニーチェの超人っぽさもある。
・p91
あの永遠に消えることのない神聖な憂いの最初の感覚を、少年の心のうちに呼び覚ますことができた。選ばれた人間というのは、いちどこの憂いを味わい、それを認識したがさあ以後、もはや安手の満足に安住しようなどとは思わなくなるものである。
感傷的で好きな文章。
・p93「フォールスタフ」
ちょうど上記の人物が登場するシェイクスピアのオペラを見てきたところでつながった。
・p189
そのくせ、毎日かかさずわたしを呼びに使いをよこし、わたしなしでは二時間と過ごすこともできず、水か空気みたいに私を必要としていたのである
「G」とヴェルホヴェンスキーの親密さが分かる。が、冷静な「G」の視線に違和感もあり、「G」が何者なのか、周囲への本心はいかようなのかというのが話の推進力となっている。
・p197
大作家カルマジーノフへの厳しい視線。自己言及?
・p280
セリフの合間に詩が挟まる。ミュージカルの様。他にも、セリフ中にロシア語の表記がそのまま残っている箇所が散見される。原文のニュアンスが重要? しかし、汲み取れない。
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ここら辺の神の存在をめぐる問答が1巻においてもっとも盛り上がる箇所。
・p336「紙でできた人間ですから」
当時のロシア人に対する批判。内実が、歴史がない国民性。アメリカ人に対する劣等感。
・p307
リザヴェータの出版計画。面白い。
・p440「全身が質問と化した」
面白い。